20240422

岡田利規の小説の特徴として*1、一人称視点を採用していながら、語り手が知り得ないはずの情報までエクスキューズなしに語る、ということがある。

 

十分以上、誰も来ない時間があったあとで、小さな男の子をつれた女性が入ってきました。男の子が背伸びをして、パンをつかむためのトングを、それが何本も細い金属のハンガーに並んで引っ掛けられているところからひとつ取ろうとして、摑むなり、床に落としました。レジでおばあさんに歳を尋ねられて、男の子は右手の指を四本にしました。それを見て、おいおいまだ三歳だろう、と女性が言いました。
でも、男の子は、小指を親指で引っ掛けるのに失敗してしまっただけなのでした。 自分が三歳なのは、分かっていました。

岡田利規「楽観的な方のケース」)

 

「楽観的な方のケース」は、語り手の「私」が、近所にできたパン屋「コティディアン」を気に入り、「恋人とふたりで美味しいパンと美味しいコーヒーの朝食を毎日食べる」という憧れを叶えるために作った恋人との日々を描いた小説だ。

この小説の話者は「私」だが、引用部では、もう既に「私」が退店したあとのパン屋の光景が語られている。なぜ「私」は、目撃していないパン屋の様子を語れているのか、「男の子」が三歳であることを自覚していたことを知っているのか。そのような疑問を放置しながら、小説は進んでいく。

渡部直己は、このような「語りの焦点が、一人称と三人称のあいだを移動し往復する」小説を「移人称小説」と名づけ、その代表的な作家として岡田利規を位置づけている。第二回大江健三郎賞を受賞した岡田の『わたしたちに許された特別な時間の終わり』以降、「移人称小説」は純文学のなかで小さなムーヴメントとなったようだが、私が関心をもつのは、技法としての「移人称」がどのようなアクチュアリティを描くときに成立するのか、その成立条件である。

実際、岡田も適当に語りの焦点を動かしているわけではない。たとえば、

 

女から見て道の左側の、電信柱のひとつの、脇に、大きなポリバケツが置いてあり、そのバケツの隣には、大きな黒い犬がいた。犬は前屈みにになっていて、バケツからこぼれたごみが地面に落ちているのをクンクンあさっているように見えた。でも、よく見るとそうではなかった。女は犬と人間を見間違えていた。犬の頭部と思っていた部位は人間の尻、それも剥き出しになった尻だった。女はホームレスが糞をしているのを見ていたのだ。それが分かって女が吐き気を催すのと、女が、というより女の喉が「あ」と声を上げるのとは、ほとんど同時だった。その声に反応したホームレスが、かがんだままでこっちを向いた。それは鋭く見るというより、風の音を聴くような感じの柔らかさだった。女はできるだけ素っ気なく、つまり女もまた風の音がよその方向から聴こえてきたようなふりをして、それでも強引に身体を捻じるように、肩の向きを真横に向けた。[…]溢れてきて道に吐き散らかした。吐いたのは糞をしている光景を目の当たりにしたからではなく、人間と動物を見間違えていた数秒が自分にあったことがおぞましかったからだ。

岡田利規「三月の5日間」)

 

同じく「移人称小説」であるデビュー作「三月の5日間」は、イラク戦争が始まるなかでの渋谷を、複数の人称を移動し、ときおり彼らの知り得る範囲を逸脱して描きながら、結末の引用部、「大きな黒い犬」だと思っていたものが脱糞するホームレスだったという衝撃によって、「移人称」によっても決して想像できないホームレスという〈他者〉、彼が象徴する〈現実〉的なものの生々しい手触りを残している。つまり同作においては、語りを可能にする範囲を大幅に広げるはずの「移人称」が、逆にその限界に突き当たることによって、目の前の惨状を容易に「見間違え」るという人間の想像力のアクチュアリティを浮かび上がらせるものとして、用いられている。

〈知り得ないけれど語れるもの〉と、〈知り得ないし語れないもの〉。両項の違いはどこにあるのか。

これは私の印象だが、岡田の場合、話者と世界(他者)の境界がもつれるような、心地よい一体感に支えられた〈場〉にあるものを〈知り得ないけれど語れるもの〉として扱い、そうでないもの、自他の境界を強く画定させておかなければならない対象を〈知り得ないし語れないもの〉として扱っているような気がする。

「楽観的な方のケース」では、「私」がパン屋「コティディアン」の空間に心地よさを覚え、そこを中心として生じた自己意識を超えるような世界肯定の感覚、〈場〉との一体感に支えられた開かれを表すものとして、一人称の制約を超える語りが可能になっているのではないか。逆に「三月の5日間」では、戦争が起こることの非現実感と妙な熱に浮かされた街としての渋谷が、ある種の一体感をもたらす〈場〉として機能した短い時間にのみ「移人称」は可能となり、その終わりを象徴するものとして、ホームレス──〈場〉から疎外されていた存在による切断があるように思える。

このように考えるとき、岡田の「移人称」の思想的根拠は、スピノザ西田幾多郎といった関係論・汎神論的哲学に求められるような気がしてくる。とくに、西田の〈場所〉の哲学、その影響下にある木村敏臨床哲学との親和性を強く感じている。西田にとって、人間の自己意識とは一つの場所に他ならず、場所であるからにして他者(という場所)と連続性をもつ。その連続性を実感するような、主客未分の経験を「純粋経験」といい、これと「移人称」を可能にするものが関係しているのではないか、とみている。

 

卒論をそのテーマ──「移人称小説」と〈場所〉の哲学──にしたいと思っているのだが、制度的・能力的に可能なのか知らない。西田幾多郎を全く読んだことがないので大変だ。

少し前は、現代文学における「自閉」的作品、ASD的表象をテーマにしようとしていたが、五月の文学フリマで出す批評同人誌『応答』の原稿を書くなかで、自分なりの結論が見えてしまい、主題としての関心を全く持てなくなった。

 

 

私は「九段理江論」を書いた。

九段理江の小説は、ひとことでいえば「イーロン・マスク文学」だ。「心」というものを自明に感じられない、偏った感覚を持つ人間が、偏ったままで世界と衝突し、真っ直ぐにズレていく。今まで否定的に捉えられていたそのズレを、拙稿では自閉症スペクトラムにまつわる知見と現代思想から捉え直し、新たなる〈開かれ〉を描くまでの過程として論じている。

この原稿を書き終えて、私が長年抱いてきたコミュニケーションの謎、その最も原理的な問題が、理論的位相においてクリアされたように感じた。そして、その解答の必然的な帰結として、できるだけ今回のようなアプローチはとるべきではないと直観するに至った。ゆえに、ある種の「自閉」という主題を直接的に扱うのは、上の原稿が最後になるだろう。コミュニケーションの実践的位相への移行は、例えば「移人称」をめぐる考察によってなされなければならない。

 

けれども、同時に、これは書くべき文章だったと思っている。個人史的な意味だけではなく、誰かに届き、助けになるかもしれない言葉だと思っている。

 

*1:彼のフォロワーたちの作品にはあまり詳しくないので、ここでは「岡田利規の小説の特徴」という書き方にとどめてある。例えば千葉雅也『デッドライン』は、語り手が知り得ない情報を記述する手法が、自分と世界(他者)の「境界線」の融解というモチーフを描く必然性のもと、ほんの一部分だけ使われており、岡田が先駆けとなった「移人称小説」が当たり前になった環境のもとで書かれた作品だと感じる。当たり前だが、「移人称」だから面白いとか新しいとかでは最初からなく、その手法を要請するものの必然性、強度がつねに問われている。